森と瞑想・冬
- kozueyogatherapy
- 2024年2月13日
- 読了時間: 3分
更新日:2024年2月16日

Kibitaki Hutteの店主の喜多さんと年に4回 季節に合わせた”森と瞑想”というWSを開催しています。もともと山登りより森歩きが好きで、そこに自分の生業としている瞑想が組み合わさったのだから、私自身も毎回うきうきする。
喜多さんと私が森歩きに夢中になってるのが伝わるからか、リピーターの多い人気のWSに育ってきました。
個人的に、森歩きはゴールがないのが何よりの魅力。頂上を目指さなくても良いというのはなんて自由でスペースが生まれるんだろう。喜多さんのガイドで立ち止まり、葉や花、木々の説明を聞くと、”ただの草花”だと思ってたものに生命が宿り始め、木や草花にも生存本能があり、それぞれの個性を活かし共存してたり、弱肉強食だったり、スペクタクルだということを学ぶ。さらに、北海道には四季というダイナミックな営みがあって、自然というのは”自ずから在る”から自然なのだということを身体を張って表現してる。本当に、命を張っていて、健気で、損得なんて一切なし。四季を通して歩くことで全てが循環し、自然に沿って命のまま在るプロセスを体験する。その魅力に取り憑かれ、飼い犬が亡くなったその年から歩き始めて10年が経った。

私は、何をしてるかというと、参加してくれた方達が、自然から何かを感じれるように言葉をかけるだけだ。なんのコントールも、期待も、正解もない。特に、ただ“在る”ということを思い出すのがヨガの練習だと感じるようになってからは、特定の答えも必要なくなって、答えを得たいと思うのはエゴだと感じるようになった。だって、森の中に行くといつも変化をしていて、正解なんてないのだ。もしあるとすれば、”分からない”というのが答えだと感じるようになり、だから、"今"にあるものがとても尊く、意味を持つようになった。
YOGAには”繋がり”という意味がある。
私が尊敬する医師で”身体がノーをいうとき”の著者のガポール・マテは、”苦しみの原因は自分との繋がりを失ってること”と言っていた。私は自然の1部で、自然も私の1部。なんなら、私は自然そのものだ。
森歩きの醍醐味は、日常に巻き込まれて、抑えたり忘れてしまった感情や感覚を思い出すことにあるんじゃないかと感じてる。鳥の囀りや光と影、風、木々の生命力、自分の息遣いや温度。判断なく、今あるものを十分に感じることが出来たら、その瞬間 自分との繋がりを取り戻し、自然=私という存在はもうすでに美しいことを思い出すことが出来る、と感じる。そして、必要以上に大きく見せる必要も頑張る必要もなく、謙遜して価値を減らす必要もない。本当の自分じゃないことをするから、不自然で不恰好なんだと言うことを、枯れ朽ちてもまだ美しい自然を通して気づいたりする。自分の中にあるエゴを感じては、大自然に対して畏怖の念を抱かずにはいられません。
こんなことを思い出させてくれる森歩きは、私にとっても有意義な時間で、手前味噌ですがとても深いWSに育ってきてると感じています。
次回 森と瞑想は2月20日(火)です。興味のある方はぜひ一緒に歩きましょう!
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